人はみな人 教会長
2月下旬と3月上旬の週末、東京と奈良で開催された、ある研修会に2週連続で参加しました。
東京では、「宗教文化士の集い」で、昨今問題になっていたカルト問題と、宗教2世についての勉強会でした。かねてより金光八尾での授業で、「カルトにはまらないためには『何がカルトなのか』を知ることが大事」という話をしてきたのですが、今回話題になったのは、まさしく「宗教リテラシー」=宗教を正しく理解する=宗教とカルトの違いを理解すること、そして私自身の立場である「宗教者にこそ宗教リテラシーが必要である」ということでした。
ムスリムのジェンダー(男女格差)について研究しておられる、ある先生は、クルアーンの解釈で、教義の本質が変わるということについて、事例を交えて紹介くださいました。例えば、キリスト教の教義に輸血を拒否するという考えはなく、聖書の解釈ひとつで、指導者の伝え方が変わり、それに影響される人々がいることの再確認になりました。
子どもや家族に信仰を強制することは、よくないことで、いかに自身の信仰姿勢を背中で見せて伝えることが大事なのかを認識させられました。
奈良へは、「名張市宗教者連帯会」の一員として、創立100年を迎えた「全国水平社」の発祥地である御所市の「水平社博物館」へ行きました。
学生時代や教師生活を通して、今まで何気なく知識として得ていた「部落差別」について、より深く知ることができました。ここで改めて学んだことは、「サルはどこ生まれのサルでもあくまでサルで『○○生まれのサルは優れている』『△△生まれのサルはあかん』など、生まれた場所で差別されることはありません。それと同じで、出身地で人間の優劣を決めることなど、絶対にあってはならないということです。「私は差別をしたことがない」という宣言ができる方はいらっしゃるでしょうか。「そんな差別は昔の話で、今はなくなった」と思われる方はいらっしゃいますか。まだまだ差別はあります。そして差別がなくならない原因は、私たちの心の中の「無意識の差別」があることです。
研修を通して学んだことは、「人はみな人」であり、「本物を見る」ことの大切さでした。
金光教祖もイエスも「神様の下では人はみな平等」という考え方を示されています。お釈迦様も同様です。お互いを認め合い、尊重しあえる「あいよかけよ」の世界の実現にむけて、私たちが身近なことから取り組めること、まだまだたくさんありそうですね。
「和らぎ」バックナンバーへ